


祖父・利三郎は明治27年1月入間川に出生。
父・彦一は大正14年3月飯能市中山に出生。
父・彦一は利三郎より写真の基礎を学び、日本婚礼写真協会会長職などを経て、平成9年勲五等瑞宝章を授かりました。
ガラス板からフィルム時代(白黒からカラー)、そしてデジタル化した写真と向き合いつづけました。この写真集は、父・彦一が祖父・利三郎の写真に対する思いを後世に伝えたいという強い意思により、出版したものです。
父・彦一は平成25年7月88歳で永眠いたしました。合掌。
本体9,333円+税 ※在庫に限りがございます。
道が開かれると人が集まり集落が形成され、やがて市が立ち宿場ができるようになる。狭山の中央部分を貫通している「入間路」は後に信濃道、あるいは鎌倉街道と呼ばれるようになるのだが、万葉時代からこの官道が通じることで、我が狭山の市街は始まったものと考えられよう。七曲り井、堀兼の井などの存在も和歌の題として遠く都にまで知れわたっていたのである。
そんな古い歴史を秘めた狭山が、その後も時の力にさいなまれながら、今や十六万余の市民の故郷として成長発展を遂げている。
土蔵造りの商家、藁屋根の民家、田園風景、木造校舎、駅前広場、ゴルフ場、米軍基地・・・。どの頁を見ても、休みなく未来へ向かって変貌し続けようとしている狭山の本当の姿がある。だが・・・、これらも既に歴史の頁のひとこまだったのである。



「馬車鉄」は馬車鉄道の愛称。汽車、電車等の動力の代わりに「馬力」を利用した乗り物である。現在の西武鉄道新宿線の前身、川越鉄道は明治二八年(1895)に開通したが、飯能や青梅などの山里は物資の運搬に牛・馬を使うか筏流しに頼らなければならなかった。
そこで水富村上広瀬の代議士清水宗徳、柏原の増田忠順らは川越鉄道入間川駅から、広瀬、根岸、笹井、野田、岩沢、双柳、前田から飯能に至る県道を拡幅し、馬車鉄を走らせた。開通したのは明治三十四年(1901)で、更に大正四年(1915)には入間川~青梅間も営業を開始した。
左の写真は入間川の橋上を進む場面、規則に従って車掌は下車して手綱をとっている。

右書きの「いるまがは」の旧仮名遣い、「入間川」も右書きだがローマ字は当然左書き。ところが次の駅名「みなみおほつか五粁四分」の右書きはいいとして「いりそ」は左書きで「三粁」は右書き。
「いるまがは」「おほつか」の旧仮名遣いとローマ字表記が、いかにも窮屈そうに同居している様子がおかしい。
「埼玉県入間郡」の時代が変わろうとしつつある頃の表記上の混乱があらわれている。

右側に瀬戸物店や箪笥店、左側には銀行、衣料品店などの看板が林立する入間川町の中心街である。行き交う人々の数をみるだけで、周辺に広がる農業村落の中核を担う商店街だということがわかる。活気溢れる風景である。
ひろびろとした道路、軒を並べる市街、広大な団地…。
二十年前、五十年前のこの地はどんなところで、どのような人々の生活があったのだろうか。古くからこの地にいた人にとっては過去との再会、新しく土地を手にして入居した人には、噂に聞くのみのふるさとの歴史。これから繰って頂く一六頁の上下に配した一六組の映像は、思い出の風景であり歴史への溯行になるはずだ。




左下の写真中央は旧入間川郵便局で江戸期の綿貫家の敷地内。ここに築山と池があって島が浮かび、危急に備える抜け穴があったとか。西の鴻池、東の綿貫と噂された関東の豪商。大阪の鴻池の祖は清酒を発明して財をなし、入間川の綿貫は関東の米を江戸に送り巨富を築いた。後に両家は両替商となる。今は昔のこと。






両側から雑木が被さり昼でも薄暗い坂道。祠のある辻を急ぎ足に登っていく人物がいる。背負い籠を担いで、台地上の畑へでも行くのだろう。
その坂道を上りきって稲荷山公園を過ぎると西武電車の踏切に行き当たる(次頁)。 ここから向こう側は米軍ジョンソン基地で民間人には入れない聖域である。
現在写真の右手は変換されて博物館、大学、警察、保健所が建ち並び、道路は延長されて入間市内に直通している。




嘱託事務として役場に勤めていた父は、読み上げ算では二挺ソロバン(正確を期すために同じ計算を二人で行うこと)を嫌がった程、珠算が得意であった。「これからの店主は複式簿記が出来ないと駄目だ」と、戦中は自宅を開放して塾を開き、店主の指導にあたった。また、出征兵士の留守宅を回り、その家族の写真を無償で撮影し喜ばれていた。戦場へ行った男たちの帰りを待つ家族はその写真を慰問袋に入れて送るのである。父が皆から大変感謝されていたことを思い出す。更に公職にあっては、入間川消防組時代から警防団に改名される間、分団長、副団長の要職にもあった。
私の知る父はどこまでも任侠心に厚く、いつも弱者の味方であった。
父のこのような性格・気質の多くは祖父・利根吉から受け継いだものである。父からよく聞かされた在りし日の祖父のエピソードがある。
ある冬の日。北風の吹き荒ぶ晩のことである。私の祖父、利根吉がたまの訪問客として知人の家を訪れてみると、障子もない部屋の一隅で、親子三人が小さな火種を囲み、吹き込む風の冷たさを凌ごうとしている姿があった。それを目にした祖父は、すぐさま自宅へと飛んで帰り、家の障子をはずして、また寒空へと飛び出していった。何事かと驚いた家の者があとを付けていくと、知人の家に我が家の障子を運び込み、入り込む北風を防ごうと格闘する利根吉の姿。それを見て、家族は何も言えなかったという。
このような祖父の性格・気質を父はしっかり受け継いでいた。
また、同時に父は、大変な趣味人であった。弓道、盆栽、山岳登山、スキー、書道…。どれもただの趣味の域を超えていた。例えば囲碁は日本棋院より二段位を授与され、弓道では京都の武徳殿で弓を引くという本格派であった。もちろん写真もその一つである。
そして特に、日本の古典い深く興味を抱いていた父が力を注いだのが、浄瑠璃・義太夫節であった。上野まで足を運び、九光五十義会の会員となり稽古を積んでいた。
父は、江戸前期の浄瑠璃、歌舞伎作者・近松門左衛門(越前の人)のファンであった。特に「曽根崎心中」の世話浄瑠璃とか人形浄瑠璃、「仮名手本忠臣蔵」「梅川忠兵衛」「本朝二十四孝」「義経千本桜、世話物(色模様)」等を好み、歌舞伎座へ通っていた。私も小さな時からよく連れられて行った。また父は、説教する時、きまって歌舞伎で学んだ義理人情物語を二時間ぐらい聞かせるのである。私も正座して語り聞かされたことが忘れられない。
昭和四年頃には、入間川クラブ(安斉医院前)に招いた女義太夫「たるき座」の公演が大評判となり、弟子入り希望者が続出したが、第二次世界大戦末期の二年間はこの風流も中断せざるを得なかった。戦後再び熱気を取り戻すと、父は自宅に組み立て式舞台を作り、東京から恩師を呼んで、弟子の発表会を催したり、週一回の指導も行った。
当時、東都丸光五十義会の番付最高位が東大関であり、「俺は東大関位がとれたら何時死んでもいい」と言っていた父は、その言葉通り、東大関になった翌年の夏、交通事故により他界した。
趣味一筋に生きた人生であった。 合掌